2015.05.06 Wednesday
ファイナル部員ブログ(矢野)
みなさんお久しぶりです。38期の矢野です。もう修士1年になってしまいました。
ブログを書こう書こうと思って3度くらい書き始めたはいいものの、絶筆を繰り返していたらいつの間にか後輩の39期が引退してしまいました。
もう書くのを諦めかけていたら、同期やら先輩やら後輩やら、はたまた他大ソフト部の友人たちにまで書けよって言われたのでさすがに書きます。
ここまで「書く」って動詞の出現頻度ちょっと高すぎませんか。ボキャヒーン。
さて、今は新歓の時期で、非常にありがたいことにたくさんの新入生が練習に来てくれているようですが、実は自分が入部したのは大学1年の9月だから、新歓って体験してないんですよね。
特にどこの団体にも所属せずにぽわわ〜んと夏学期を過ごしていたら、いつの間にか夏休みになっていて、成績は本当に惨憺たるもので、生活は全体的につまらないし、大学に入った意義をわりと本気で疑っていました。高校生の頃はそこそこにうまくやっていたから、母校に呼ばれて高校生相手に大学生活についての話とかしてたわけですが、くっそつまんねぇから大学辞めてぇよとも言えずに、嘘ばっかついて、申し訳ない気持ちをもっていました。
部活を辞めて自分と同じようにふらふらしていた友人と話していたら、これはいかんと思って、何か打ち込めるものを探そうという話になりました。
自分の中には選択肢は一つしかなくて、それがソフトボールでした。
一番大学がつまらなかった6月くらいに、学芸大に進学した友人に誘われて駒場でのリーグ戦をみにいった時に、ごちゃごちゃと何かが燻っていることに薄々気づいていたのですが、それがクッキリしたって感じでしょうか。
自分は高校でもソフトボールをやっていて、チーム最終戦でのラストバッターが自分でした。
そこまでの結果は上々で、ソフトボールを6年くらいやっていた中で一番調子が良かった日だったと思います。そんな中、5回から登板した相手エースを相手に、結果は三振で、自分の高校ソフトボール生活は終わりました。
相手ピッチャーがサインに首を振って、大きく頷いた時、自分の中で張り詰めていた糸が切れるのが分かりました。自分で振りながら分かるくらい遅いスイングで、バットは空を切りました。
後にも先にも、ピッチャーが投げる前に諦めた打席はあれだけだったと思います。
余談ですが、その時の対戦相手の彼は昨年の東日本大会で日体大のエースとして無失点のまま優勝投手になっていました。そんなすごいやつだとは当時は知りませんでした。肩書とかそういうものではなくて、純粋に雰囲気に圧倒されて、負けました。
そんな最終打席から一年が経って、駒場で久しぶりに試合を観て、その時点ではモヤモヤしていた気持ちが、8月頃にやっときちんとした形になりました。
ただ、4月を逃すと、途中で団体に入るのって想像以上にハードルが高くて、なかなか踏み出せないでいました。
(というわけで一年生のみなさんはぜひ今入部しちゃってください!)
そういった状況で自分が入部できたのは、当時主将だった町村さんからの秋新歓のお誘いメールのおかげでした。まさに渡りに船でした。
初めて行った練習の日は、残念ながら総長杯がいきなり入ってしまって、ちゃんとグラウンドを使えませんでした。
ただ、グラウンド端を使わせてもらって久しぶりキャッチボールをしたら、ほんとうに楽しかったのを覚えています。
入部してからは、友だちになんか活き活きとしはじめたねって言われたりしました。
時間的には厳しいものがありましたが、学業の方も比較的頑張れるようになりました。
そういういい流れで、2年(暦的には1年生だけど)春を迎えて、合宿ではホームランも打てたし、チャレンジカップで1部の学習院に勝った時なんかは、ソフトボール最高に楽しいわ!って感じでした。
僅差のゲーム1死1塁で水田にドロップ要求をして、そしたら綺麗にセカンドゴロでゲッツーが取れた時なんて、たまらなかったです。青沼さんが「狙い通りwwww狙い通りwwwwwww」ってはしゃぎまくっていたのが鮮明に頭の中に残っているくらい、気持よかったです。
その春のリーグ戦直前で怪我をしてしまって、試合にもあまり出られず、思うようにプレーができない中で、2部から3部に降格しました。36期の清水さんとバッテリーを組んだ最後の試合は桜美林大学との入れ替え戦で、結果はコールド負けでした。
春リーグが終わったあとも怪我をちょくちょく繰り返して、なかなか思う通りにはいきませんでした。
打てれば、勝てれば良かったんでしょうが、残念ながらそうはいかず、部活がいつの間にか”負担”であるように感じるようになってきました。
入れ替え戦に進めず秋リーグが終わった時、その感覚がピークに達しました。
この頃左打者に転向をしました。小学校の野球チーム時代を含めると10年近く慣れ親しんでいた右打席との決別でした。もうちょっと頑張ってみよう、そう思いました。
裏を返せば、それで頑張れるのは「もうちょっと」だけでした。
春合宿前のある日、3年春で一度部活から距離を起きたいという旨を部員のみんなに伝えました。
ちょうどその頃に他大学の友人が自分の所属する学生団体のためにしばらく休部するという話をきいていて、自分も一度ボールから距離をおけば、また入部する前のような飢えた感覚が戻ってくるのではないかと思っていました。
今思い返せば当時はマジで自分のことしか考えていませんでした。いろいろな人に気を揉ませてしまって申し訳ないです。
そこから紆余曲折あって、監督をやらせてもらうことになりました。
別の形で部活に対する熱意が芽生えてくるのを感じました。
監督になってからは考えていたことを色々やろうしましたが、詰めの甘さから、全然うまくできなくて、しかも自分で背負い込んでしまって、悪循環に陥っていました。でも、水田と森口の同期が、一緒に頑張っていこうぜって言ってくれて、暗くて何も見えなくなっていた自分の視界が一気に開けた気がしました。
今までの自分にとって、部活というものを考えるときは、自分と部活の関係というのがほぼ全てでした。それがほんのちょっとだけ他のことを考えられるようになりました。
秋リーグまでの公式戦は、一試合も勝てませんでした。
退部した仲間もいました。
もう自信も何もありませんでした。部員のみんなはお金やら時間やら、とんでもない量のリソースを部活に注いでいて、それに対して成果がでるシステムを作るのが自分の役割だと思っていたので、役割を全く果たせていませんでした。
秋リーグが始まる時に茅沼がかけてくれた「このチームは矢野さんのチームですよ!がんばりましょう!」って言葉が救いでした。
結果2勝1敗で失点率で2位に終わりましたが、勝って終わるリーグ戦は入部してから初めてでした。細かいことは全然覚えてないですが、楽しかったことだけは記憶に残っています。
秋リーグが終わってからは膝は痛いわ肩は痛いわでだましだましでしたが、とにかく駆け抜けたという印象です。倒れこんでトライを決めにいくイメージでした。
2年の冬からはじめた左打席では、セーフティバントの技術が思ったよりハマって、打率が一気にあがりました。普通のクリーンヒットもなぜか打てるようになりました。練習試合でも、勝てる試合が増えました。
そして臨んだ春リーグ、初戦の成蹊戦をコールド勝ちで飾ると、その後も勝ち進み、3部降格後初のAB優勝決定戦進出が決まりました。
AB優勝決定戦で野田がタイムリー2ベースを打った瞬間のチームの盛り上がりとか、ああいった興奮は忘れられないです。
試合は負けてしまって、この試合で自分は引退しました。監督もこの試合で終わり、自分の部活生活はここで区切りとなりました。
欲を言えば入れ替え戦にいって、もう一回勝って2部にあがって引退したかったし、もっと欲を言えば、その試合で水田とバッテリーを組んでウイニングボールをつかみたかったです。
まあ、でも、後悔はありますが、未練はありません。
入部してからは、楽しいこともたくさんありましたが、どっちかっていうと、しんどいことの方が多かったような気がします。ただ、それは悪いことではなくて、そこから成果が出れば、成果を引き立たせてくれるスパイスになってくれるんだよなって今は思っています。
監督をやっている間は試合に負けたら死ぬんじゃないかってくらい追い込まれていて、それは別に部活つらいとかいう意味ではなくて、緊張感みたいなもので、そういう肌がヒリヒリする感覚を得られるのも、圧倒的にしんどい時間があったからだと思います。
この「しんどさ」っていうのは3年生の春の時に部活から距離をおきたいと思った時に感じたものとは種類が違って、いわば負担と負荷の違いみたいなものです。
大事なのは中途半端に「いい思い出」に変えてしまうと、どこかで齟齬が生じてどうしようもなくなってしまうので、辛いことを辛いって一回素直に受け止めることだよなってめっちゃ感じるので、悩んでいる後輩がもし居たら、ほんのちょっとでいいから参考になればなと思います。
最後になりますが、今までお世話になった全ての方々、それは同期や先輩、後輩はもちろん、他大学の友だちも含めて、感謝の言葉は尽くしきれません。自分にできることだったらなんでもするので、何らかの形で恩返しをしたいです。
ここまで読んでくれて、もしかしたら長くてほとんど読んでないかもしれないけど、とりあえずここを読んでくれて、ありがとうございました。
またグラウンドとかでお会いしましょう。
ブログを書こう書こうと思って3度くらい書き始めたはいいものの、絶筆を繰り返していたらいつの間にか後輩の39期が引退してしまいました。
もう書くのを諦めかけていたら、同期やら先輩やら後輩やら、はたまた他大ソフト部の友人たちにまで書けよって言われたのでさすがに書きます。
ここまで「書く」って動詞の出現頻度ちょっと高すぎませんか。ボキャヒーン。
さて、今は新歓の時期で、非常にありがたいことにたくさんの新入生が練習に来てくれているようですが、実は自分が入部したのは大学1年の9月だから、新歓って体験してないんですよね。
特にどこの団体にも所属せずにぽわわ〜んと夏学期を過ごしていたら、いつの間にか夏休みになっていて、成績は本当に惨憺たるもので、生活は全体的につまらないし、大学に入った意義をわりと本気で疑っていました。高校生の頃はそこそこにうまくやっていたから、母校に呼ばれて高校生相手に大学生活についての話とかしてたわけですが、くっそつまんねぇから大学辞めてぇよとも言えずに、嘘ばっかついて、申し訳ない気持ちをもっていました。
部活を辞めて自分と同じようにふらふらしていた友人と話していたら、これはいかんと思って、何か打ち込めるものを探そうという話になりました。
自分の中には選択肢は一つしかなくて、それがソフトボールでした。
一番大学がつまらなかった6月くらいに、学芸大に進学した友人に誘われて駒場でのリーグ戦をみにいった時に、ごちゃごちゃと何かが燻っていることに薄々気づいていたのですが、それがクッキリしたって感じでしょうか。
自分は高校でもソフトボールをやっていて、チーム最終戦でのラストバッターが自分でした。
そこまでの結果は上々で、ソフトボールを6年くらいやっていた中で一番調子が良かった日だったと思います。そんな中、5回から登板した相手エースを相手に、結果は三振で、自分の高校ソフトボール生活は終わりました。
相手ピッチャーがサインに首を振って、大きく頷いた時、自分の中で張り詰めていた糸が切れるのが分かりました。自分で振りながら分かるくらい遅いスイングで、バットは空を切りました。
後にも先にも、ピッチャーが投げる前に諦めた打席はあれだけだったと思います。
余談ですが、その時の対戦相手の彼は昨年の東日本大会で日体大のエースとして無失点のまま優勝投手になっていました。そんなすごいやつだとは当時は知りませんでした。肩書とかそういうものではなくて、純粋に雰囲気に圧倒されて、負けました。
そんな最終打席から一年が経って、駒場で久しぶりに試合を観て、その時点ではモヤモヤしていた気持ちが、8月頃にやっときちんとした形になりました。
ただ、4月を逃すと、途中で団体に入るのって想像以上にハードルが高くて、なかなか踏み出せないでいました。
(というわけで一年生のみなさんはぜひ今入部しちゃってください!)
そういった状況で自分が入部できたのは、当時主将だった町村さんからの秋新歓のお誘いメールのおかげでした。まさに渡りに船でした。
初めて行った練習の日は、残念ながら総長杯がいきなり入ってしまって、ちゃんとグラウンドを使えませんでした。
ただ、グラウンド端を使わせてもらって久しぶりキャッチボールをしたら、ほんとうに楽しかったのを覚えています。
入部してからは、友だちになんか活き活きとしはじめたねって言われたりしました。
時間的には厳しいものがありましたが、学業の方も比較的頑張れるようになりました。
そういういい流れで、2年(暦的には1年生だけど)春を迎えて、合宿ではホームランも打てたし、チャレンジカップで1部の学習院に勝った時なんかは、ソフトボール最高に楽しいわ!って感じでした。
僅差のゲーム1死1塁で水田にドロップ要求をして、そしたら綺麗にセカンドゴロでゲッツーが取れた時なんて、たまらなかったです。青沼さんが「狙い通りwwww狙い通りwwwwwww」ってはしゃぎまくっていたのが鮮明に頭の中に残っているくらい、気持よかったです。
その春のリーグ戦直前で怪我をしてしまって、試合にもあまり出られず、思うようにプレーができない中で、2部から3部に降格しました。36期の清水さんとバッテリーを組んだ最後の試合は桜美林大学との入れ替え戦で、結果はコールド負けでした。
春リーグが終わったあとも怪我をちょくちょく繰り返して、なかなか思う通りにはいきませんでした。
打てれば、勝てれば良かったんでしょうが、残念ながらそうはいかず、部活がいつの間にか”負担”であるように感じるようになってきました。
入れ替え戦に進めず秋リーグが終わった時、その感覚がピークに達しました。
この頃左打者に転向をしました。小学校の野球チーム時代を含めると10年近く慣れ親しんでいた右打席との決別でした。もうちょっと頑張ってみよう、そう思いました。
裏を返せば、それで頑張れるのは「もうちょっと」だけでした。
春合宿前のある日、3年春で一度部活から距離を起きたいという旨を部員のみんなに伝えました。
ちょうどその頃に他大学の友人が自分の所属する学生団体のためにしばらく休部するという話をきいていて、自分も一度ボールから距離をおけば、また入部する前のような飢えた感覚が戻ってくるのではないかと思っていました。
今思い返せば当時はマジで自分のことしか考えていませんでした。いろいろな人に気を揉ませてしまって申し訳ないです。
そこから紆余曲折あって、監督をやらせてもらうことになりました。
別の形で部活に対する熱意が芽生えてくるのを感じました。
監督になってからは考えていたことを色々やろうしましたが、詰めの甘さから、全然うまくできなくて、しかも自分で背負い込んでしまって、悪循環に陥っていました。でも、水田と森口の同期が、一緒に頑張っていこうぜって言ってくれて、暗くて何も見えなくなっていた自分の視界が一気に開けた気がしました。
今までの自分にとって、部活というものを考えるときは、自分と部活の関係というのがほぼ全てでした。それがほんのちょっとだけ他のことを考えられるようになりました。
秋リーグまでの公式戦は、一試合も勝てませんでした。
退部した仲間もいました。
もう自信も何もありませんでした。部員のみんなはお金やら時間やら、とんでもない量のリソースを部活に注いでいて、それに対して成果がでるシステムを作るのが自分の役割だと思っていたので、役割を全く果たせていませんでした。
秋リーグが始まる時に茅沼がかけてくれた「このチームは矢野さんのチームですよ!がんばりましょう!」って言葉が救いでした。
結果2勝1敗で失点率で2位に終わりましたが、勝って終わるリーグ戦は入部してから初めてでした。細かいことは全然覚えてないですが、楽しかったことだけは記憶に残っています。
秋リーグが終わってからは膝は痛いわ肩は痛いわでだましだましでしたが、とにかく駆け抜けたという印象です。倒れこんでトライを決めにいくイメージでした。
2年の冬からはじめた左打席では、セーフティバントの技術が思ったよりハマって、打率が一気にあがりました。普通のクリーンヒットもなぜか打てるようになりました。練習試合でも、勝てる試合が増えました。
そして臨んだ春リーグ、初戦の成蹊戦をコールド勝ちで飾ると、その後も勝ち進み、3部降格後初のAB優勝決定戦進出が決まりました。
AB優勝決定戦で野田がタイムリー2ベースを打った瞬間のチームの盛り上がりとか、ああいった興奮は忘れられないです。
試合は負けてしまって、この試合で自分は引退しました。監督もこの試合で終わり、自分の部活生活はここで区切りとなりました。
欲を言えば入れ替え戦にいって、もう一回勝って2部にあがって引退したかったし、もっと欲を言えば、その試合で水田とバッテリーを組んでウイニングボールをつかみたかったです。
まあ、でも、後悔はありますが、未練はありません。
入部してからは、楽しいこともたくさんありましたが、どっちかっていうと、しんどいことの方が多かったような気がします。ただ、それは悪いことではなくて、そこから成果が出れば、成果を引き立たせてくれるスパイスになってくれるんだよなって今は思っています。
監督をやっている間は試合に負けたら死ぬんじゃないかってくらい追い込まれていて、それは別に部活つらいとかいう意味ではなくて、緊張感みたいなもので、そういう肌がヒリヒリする感覚を得られるのも、圧倒的にしんどい時間があったからだと思います。
この「しんどさ」っていうのは3年生の春の時に部活から距離をおきたいと思った時に感じたものとは種類が違って、いわば負担と負荷の違いみたいなものです。
大事なのは中途半端に「いい思い出」に変えてしまうと、どこかで齟齬が生じてどうしようもなくなってしまうので、辛いことを辛いって一回素直に受け止めることだよなってめっちゃ感じるので、悩んでいる後輩がもし居たら、ほんのちょっとでいいから参考になればなと思います。
最後になりますが、今までお世話になった全ての方々、それは同期や先輩、後輩はもちろん、他大学の友だちも含めて、感謝の言葉は尽くしきれません。自分にできることだったらなんでもするので、何らかの形で恩返しをしたいです。
ここまで読んでくれて、もしかしたら長くてほとんど読んでないかもしれないけど、とりあえずここを読んでくれて、ありがとうございました。
またグラウンドとかでお会いしましょう。